【呪詛】カイジ ファイナル・ゲームについて

この記事は先日公開された「カイジ ファイナル・ゲーム」が如何に面白くなかったかということを延々と書き連ねる記事となります。

公式サイトは以下
kaiji-final-game.jp

ネタバレにならない程度の前フリ

藤原竜也さんといえば?と聞かれて、過剰な濁音を伴う「な゛ん゛でだよ゛ぉ゛!!!!」という雑なモノマネを思いだす方も多いのではないだろうか。そのイメージを定着させたのが 2009 年公開の映画「カイジ 人生逆転ゲーム」である。
この過剰な演技ばかりが話題になるが、実際に作中ではどうかというとそこまで悪目立ちしているわけではない。物語が盛り上がるところで使われるので、観客としても同じ温度感を共有できていたのでとても楽しめて見れた。まあ確かに冷静になってみるとちょっと異常なテンションだけど。評価するなら ☆4.2 ぐらい。
そしてその 2 年後、続編として公開されたのが「カイジ 2 人生奪回ゲーム」だ。1 で評価されていたちょっと過剰気味な演技そのままに続編としてしっかり作られていた。ただ評価できない点もあって、一部映画オリジナルのシナリオというかゲームが追加されていたのだが、そこは正直面白くなかった。回答へのたどり着き方が雑だったのが気に食わない。でも総括すれば全然楽しめたレベル。☆3.3 ぐらい。
そしてその更に 9 年後、およそ 2 週間前に公開されたのが「カイジ ファイナル・ゲーム」である。完全オリジナルというところに疑いは持ちつつ、だが原作の福本先生が脚本担当しているからある程度大丈夫だろうという少しの期待は持ちながら、ハードルはとっても下げて鑑賞してきました。
で、結論から言うと
すっごいつまらない。
というか面白い要素がない。

なんだろ、下げに下げたハードルの下をスライディングで抜けていかれた感じ。
もし怖いもの見たさで鑑賞する場合、OP 映像が流れ始めるまでにもし違和感を抱いた場合、その違和感は終幕まで解決されることはありませんので、OP 映像のタイミングが損切りのチャンスです。それ以上のものはその後の 2 時間で提供されることはありませんので、安心して席を立ってください。恐らく周りの席もスカスカでしょうから、視線を妨げる恐れもありません。

主題のゲームがつまらない

今回の主題となる人間秤というゲーム。まずこれが面白くない。致命的なまでに。
ゲームの概要を説明すると、自分のお金と自分に関係のある人達のお金を金塊に換えて、総重量の重かった方の勝ち!っていうゲーム。
いやー、これさ、想像に難くないとおもうんですけど、ただの金持ちのマネーゲームなんすよね。作戦の及ぶ余地ももちろんあるけど、それ以上に持ってるものの差が大きいじゃん。運否天賦ですらねえ。
そもそもさぁ、思考とか読み合いのない金と積み合い(こちらが一方的に妨害されるだけ)を延々と見せられる映像が面白い映像だと思ったのか?誰も気づかなかったの?ただ妨害されてカイジが悔しがる映像のどこに熱量を持てばいいのかがマジでわからない。温度差が半端ない。そもそも鑑定システムを相手に頼ってる時点で勝つ気ないでしょ。バカか???

カイジでやる必要ある?という内容

上の話の途中でねー、味方の爺さんの助手がなんと愛人の子供でした!捨てられたと思ってたけど実はとっても愛されてました!っていう情報が開示されるんですよ。
それ、勝敗に関係ある?
いやさぁ、カイジにそういうお涙頂戴を求めてる層がどれだけいるのよ。そんなことに時間割くぐらいだったらもっとゲームの駆け引きとか心理描写に時間を割きなさいよ。だいたいぽっと出のキャラの親子の絆がーとか言われても全然響かないんだよ。ただでさえ見どころのないゲームを延々と見せられて冷え切ってる観客と画面との温度差が更に広がるだけでしょうよ。んでそのあとも微妙に親子の絆みたいな話引っ張るしさぁ。助手が笑ったとか笑わないとかどうでもいいんだけど。
そもそもギャンブルに挑戦する背景自体がカイジっぽくないんだよね。今回の主題となるギャンブル、常にカイジの人生自体は脅かされていないんだよね。ドリームジャンプだけは命が脅かされているけど、あれにチャレンジしてもしなくてもカイジの人生は変わらないし、命が失われるわけでもない。なんだろう、カイジを正義感あふれる男として描きたかったのかな?
全体として格差問題を扱いたいってのはわかる。それを見せるために派遣社員として搾取されていた人たちの上位層への反逆を使うのはエンターテインメントとしてわかりやすくていいと思う。搾取される者たちの反逆とかすごいカイジっぽいもんね。それはよかったんだけど、まわりについてきた要素がことごとくクソだったかな。

話の作り方が雑

今までの話はどちかというと「この映画がカイジである」という前提のもとに生まれる批判かと思うんだけど、それ以上に致命的なのがこの映画話の作り方が雑すぎる。カイジがどうとかの前にエンターテインメントとしてもダメだと思う。この映画はカイジというタイトルを冠してなくてもクソ呼ばわりされたと思うわ。
一つは仕込みが雑。なんだろうなー、なにか起こったことについて回答はこれでした!っていうのを後出しでポンポン出し合うのをひたすら見せられていた感覚なんだよね。こういう心理戦とか頭脳戦ものって積み重ねた理のどこをつくのか、今まで提示された情報のどこに突破の糸口があったのかというものが一気に提示されていくところに魅力があるんじゃないんですかね。
たとえば前述のカイジ1では、限定ジャンケンの際に偶然付着した血液を利用したガン牌を思いつく。目印付きのカードでわざとシャッフルに参加し、同じカードが戻ってきたことで相手もこのガン牌に気づいていることの裏付けが取れる。その状況で相手から仕掛けてきた勝負なので、相手が持っているカードはほぼ特定できるという作戦で見事に勝利する。この一連の流れはただガン牌してたからわかったんですー!というじゃない、特段複雑な理屈でなくとも丁寧に理の積み重ねが出来ているからこそ、観客は見ていて楽しい。
さらにここで観客に感心を与えることによって、利根川との決戦時に血液を使ったガン牌に気づき、そこで読み合いが発生するということを観客側が受け入れやすくなり、最終的にカイジの「俺を蛇だと思った、あんた自身が蛇なんだ」場面自体の説得力が増すという作りになっていると思うんよな。
限定ジャンケンもEカードも、原作からの改変点は多くあって、特に限定ジャンケンは大きく話の展開も変わっているので、「こんなのカイジではない!」という人がいるのもわかる。それでも、原作の味をそこまで損なわずに映画という時間の限られたエンターテイメント用の味付けのされた作品になっているという面で、私はカイジ1は好きなんだよね。 それに比べて今作のひどいことひどいこと。最後の秤のシーンの怒涛の展開はひどかったと思いますよ。
カイジ:金持ってきた!
敵:高い位置にあるから載せられません!
カイジ:仕込み発動!ドローン部隊!
敵:なにっ!でも時間切れだからダメ!
カイジ:またまた仕込み発動!時計ずらしてました!
カードゲームやってんじゃないんだからさぁ。

一つはキャラクターの描かれ方が雑。多分この作品の登場人物はアンドロイドかなにかで、予め設定された目的をインストールするとなにも疑問を持たずにその内容に従って動くとかいう舞台背景だったと思うんだよ。
たとえば終盤のコインを投げ入れる場面。実際に大金を積み上げてきたカイジが勝ち馬に乗れと言っているのに動き出さなかった人間たちが、なぜか坂崎のおっちゃんが現れた瞬間から動き出すのはそうプログラムされているから。黒崎側についていた人間たちがドローンを操縦する人間を妨害しようとせず、コインを投げ入れることに注力したのは、妨害するという行動がプログラムされていなかったから。だから、登場人物には行動原理が存在しない。だから、この作品に出てくる登場人物に対して感情移入ができない。ただでさえつまらんゲームを見せられている観客と登場人物との温度差が更に大きくなる。
舞台装置になってるのはモブだけじゃない。主人公たるカイジもまた例外ではない。一番ひどいなと思ったのは、地主陣営に加わることを決意するシーン。それまでは断固拒否という態度をとっていたのに相手が帝愛の人間だと聞いた瞬間に目の色が変わるところ。火拳のエースかな?
登場人物の中で一番やばいのが、仲間の女。名前すら覚えてないし、思い出したくもない。こいつは劇中の最後でカイジの取り分の金を遠藤さんに横流しするとかいう裏切り行為を働いた。実はドリームジャンプの攻略法(というにはあまりにもお粗末な情報)を利根川から提供されたあとに情報料を要求されており、それがカイジの取り分だった、という理由付けがされてはいたのだが。人の行動を制御するのは損得と感情だと考える。それを天秤にかけて、時に大事にしてきた人を切り捨てたり、時に自分の危険を顧みずに人を助けたりする。原作カイジに於いてもそういう描写はあり、金に目が眩んで恩人であるカイジを捨てた安藤、金持ちの思い通りになる悔しさから何の得にもならない石田のおっちゃんを助けたカイジなんかが最たる例だろう。
ではこのクソ女の状況を考えてみよう。まずは損得の観点から。カイジの取り分を遠藤さんに横流しすることについて、女が得することはない。ここで、カイジの取り分から自分の取り分を増やしてたとしても関係はない。残りの分が遠藤さんに渡るのかカイジに渡るのかによって女の得が左右されることはないから。また、横流ししないことによって女が損することもない。情報提供自体は契約を結んでいたわけでもない、自身の素性が知られていたり弱みを握られているわけでもないため、この約束を反故にすることにリスクはない。
じゃあ感情の面ではどうか。遠藤さんは帝愛ランドで初めて会った人間(のはず。描写されていない)であり、思い入れが生まれる余地はない。カイジも会ってから過ごした時間については短いが、同じ陣営の仲間として一緒に戦った仲であり、そしてその陣営の勝利のために自らの命を賭して90億を稼いできた男なわけで。普通に考えれば、どっちに肩入れするかと聞かれればカイジとなると思うのだが。
一時が万事そういうところで、切って貼ったような話の展開のせいで登場人物すべてが我々と同じ意思を持った人間としてでなく、話をすすめるためだけに存在する舞台装置として見えてしまう。それがこの映画をクソ足らしめている部分で、これがあるせいでこの映画が仮にカイジという名を冠していなくてもクソである最大の理由。

よかった点

苦心してひねり出すとすればツッコミどころが満載なのですべてをツッコんでみよう!みたいなスタンスで見れば楽しめるんじゃないですかね。だから酒でも飲みながら友達とツッコミながら答え合わせしてみたりするのはどうですか。
え?映画館でそんなことできないじゃないかって?
だから映画館に見に行くなって言ってんだよ!!